今週号からスタートの仰天新企画「YW式動画リンクシステム」、
お試しいただけましたでしょうか。
少なくとも映画、DVD業界などオフタイムのページの関係者には結構な反応があって、
早速数社から電話がありました。
で、月曜に2社、火曜に1社の撮影というあわただしさです。
来週号ももちろんやりますので、まだの方はぜひ。
それはそれとして、今朝のスポーツ新聞各紙の1面
「元取手二高の石田投手死す」という記事には驚きました。
41歳という若さでした。
1984年夏の甲子園決勝であの桑田に投げ勝ったピッチャーです。
私はそのとき、入社二年目の水戸支局の記者。
高校野球県予選の取材を担当していました。
すでに西の横綱PL学園、東の横綱取手二と言われるほどの強豪でしたが、
普通の県立高校の普通の校庭で練習していました。
監督はまだまったく無名の木内監督。
あの茨城弁で暗くなるまで丁寧に取材に応じてくれました。
84年春、新装なった水戸市民球場に
PL学園を招いて取手二との練習試合が行われました。
桑田、清原はもうスターでしたから、球場は超満員。試合前の練習で、
桑田がパーンといい音を立ててキャッチャーミットに投げ込むたびに大歓声です。
スコアは忘れてしまいましたが、取手二は大差で負けました。
帰りのバスに乗り込む際、キャプテンの吉田君に尋ねました。
彼もプロ入りし、近鉄、阪神で俊足巧打のショートとして鳴らしました。
その吉田君は私にこう言いました。
「勝てっこねえよ」
しかし、それからわずか3か月、甲子園の決勝で、
しかも延長戦であのPLを撃破したのです。
石田投手は早稲田に入り、その後大洋に入りました。
応援していたのですが、あまり活躍はできませんでした。
ずっと、打撃投手をしていたことを今朝の新聞で知りました。
「プロ野球を含めて数少ない心に残る投手でした」
という桑田のコメントが心にしみます。
スポーツ新聞が1面で大きく伝えた、そのことが、
日本中のファンの心に残る投手だったことを何より物語っていると思います。
全然関係ありませんが、
わが母校神奈川県立柏陽高校は今夏、1回戦で早々に姿を消しました。
はるか35年前、硬式野球部ができて初参戦したときに応援団を頼まれました。
桐蔭学園と当たって1点先制したときには、ひょっとしたらなどと思いましたが、
結局コールド負けでした。
3番にロッテのショート水上が、
4番に広島のライト長内がいたチームですから、勝つはずはありませんでした。
最近新聞を読む時間が長くなりました。
全国の県予選の結果を確認しているからです。
(苦悶デスクこと木村透)
2008/07/16
石田投手のこと
posted by ブログ管理者 at 13:00
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