バスストップの「神」土曜日に奥多摩の山歩きへ。
朝、ケータイのバスロケシステムでバスの到着時間を調べ、5分前に家を出る。
このバスロケ、バスから電波が出るのだろうか、
かなり正確に到着時間を教えてくれる。
毎朝の出勤時にも欠かせない。我が家周辺のバス路線は、踏み切り渋滞のせいで時刻表がまったくアテにならない。15分、20分待たされるのは当たり前。
朝からイライラし、無理に心を落ち着ける。
そんなことが、1年ほど前からバスロケを使い始めたことでなくなった。
バス停で、先客たちがイライラしながら時刻表をにらみつけているのを尻目に、
私ひとり「あと3分」後のバス到着を知って涼しい顔をしている。
あらかじめ知っているのを「予知」という。「神」概念は、収穫と天候にからむ「予知」の必要性から生まれたというような話を聞いたことがある。
予知=神であるなら、私はバス停の神である。
ときに、バスをあきらめて、タクシーを拾いに歩き始める人がいる。
ちょっと待って、もう2分我慢すれば来ます――と言ってやりたくなるが、それもいやらしい気がしてためらう。
私だけが知っている――そのことの恍惚と不安。
思えば人生は、時刻表のあてにならないバス停のようなものではないか。
この努力を続けて果たして報われることがあるのか、あの人のことをもう少し待つべきなのかどうか、あの特集をもう一週続けていれば読者が付いたのに――神ならぬ身の人間は、みなそんな場所で生きている。
であれば、私ひとり神であるわけにはいかない。
最近は、待ち疲れてバス停を去ろうとする人があると
「あのう、まもなく来ますよ。最近はバスロケシステムってのがあって…」
と、自慢にならぬよう気をつかいながら、予知のおすそ分けをすることにしている。
さて山歩きだが、普段の生活がたたって、最初の30分は地獄の責め苦だった。
心臓とそこをめぐる血液がぐらぐらと煮え立って、生命の危機すら感じるほど。
途中で帰ろうと本気で思った。
でも5時間後には、夕暮れの山の麓のおそばやで、冷えた「そばビール」なるものを幸福感に包まれながら飲んでいた。
(ぐらぐら編集長こと・川人献一)
posted by ブログ管理者 at 21:57|
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